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10月例会のご案内

日時:10月9日(土) 14時~17時
会場:大阪商業大学 、4号館 4F 442教室

報告者1:孫暁萌会員 (龍谷大学大学院社会学研究科博士後期課程)
「天津における日本の新聞活動―『庸報』(1926-1944)を中心として」
【報告要旨】
天津は中国北方の最も重要な経済中心であった。1896年に日本 が天津で租界を設けた。天津は上海に次ぐ、日本の新聞活動の 拠点であった。1899年から1945年まで合わせて32紙の新聞が創 刊された。その中でも強い影響力を持った新聞が『庸報』である。『庸報』は1926年に中国人董顕光がによって創刊された日刊新聞である。1935年を節目として、日本人が経営する段階に入ると、関東軍によってコントロールされた。さらに、1937年には国策通信社としての同盟通信社によって接収され軍部支配下の新聞となった。本報告は『庸報』の歴史と編集方針を考察することにより、戦時日本政府の対外宣伝の一側面を明らかにしたいと思う。

報告者2:吉田建一郎氏(大阪経済大学経済学部)
「向井龍造と満蒙殖産の骨粉製造、1909-31年」
【報告要旨】 20世紀前期、牛や豚をはじめ多数の家畜が飼養されていた中国で、複数の日系企業が骨粉の製造に従事した。この報告では、その中から1920年に大連を本社として設立された満蒙殖産株式会社に着目し、同社の創設過程と創設後の経営の推移を1931
年まで紹介する。同社についてはこれまで、第1次大戦後の恐慌や1920年代末の世界大恐慌の影響から経営が低迷したことが指摘されている。これに対し本報告では、1930年代初頭までの満蒙殖産の特徴として、次の2つの点を示したいと考えている。1つめは、1920年代から1930年代初頭の満蒙殖産の経営において、低迷と捉えうる局面は少なくなかったが、それは恐慌の影響のみにとどまらなかったということである。満蒙殖産が直面し克服することを迫られたのは、中国における政治、経済の変動、自然災害、日本内地の農村経済、経済政策の動向など多岐にわたっていた。2つめは1920年代から1930年代初頭の満蒙殖産の経営には、極めて緩やかながら好転の局面があったということである。好転の背景には、骨粉製造に重点をおいた経営方針の採用、原料骨買付コストを引き下げる努力、インドをはじめとする世界の骨粉貿易を取りまく状況の変化により中国産骨粉に対する日本内地からの需要が高まったことなどがあった。
by yukiko_sakaida | 2010-10-02 11:17 | 月例会・総会案内
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